悲運の人富士亦八郎重本 富士大宮司家墓前祭
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二の宮墓地の最も富士山より、二の宮区民館に隣接する場所に富士大宮司家の墓所がある。
毎年9月26日に墓前祭が行われる。
富士大宮司家は延暦20年(801)に和邇部家17代豊麿公が富士郡大領に就任、同時に浅間大社祀職を任じられた事から姓を富士に改め、浅間大社の大宮司を代々務めてきた。
幕末、第44代重本(しげもと)は、国事を憂う志があり、塾を開き配下の社人や領内有志を集めて、蘭学、漢学、槍術、洋式教練を学ばせ、明治元年東征大総督宮の東下に際し駿州の神主社人と謀り駿州赤心隊を組織し、自ら隊長となり官軍に参加した。
戦に勝った駿州赤心隊の旧隊士たちが故郷へ戻ってきた際には、駿河へ移住させられた旧幕臣が恨みを込めてテロ行為を繰り返す事件が起きた。富士宮も情勢不安が続いたため亦八郎は帰る事が出来ず、明治3年7月に富士大宮司家居館芙蓉館は放火により灰燼に帰し、名門富士大宮司家は、44代をもって世襲を辞した。
芙蓉館の碑と駿州赤心隊の碑だ。
芙蓉館の碑にはこう書かれている。
「富士亦八郎が東京に移った跡、かつて富士氏の住んだ芙蓉館も日に日に荒廃の一途をたどり、その一部は耕地と化し、また他は狐狸の窟となり、ありし日の面影は消え去ろうとしていた。亦八郎はこうした先祖伝来の由緒の地が消え去ろうとすることを恐れ、これを永久に記念するため、この碑を建てようとした。」
徳川家からは多くの寄進を受けている。時の朝廷より富士郡大領に任じられたとはいえ打算を考え何もしなければ、平穏無事にいられたのかも知れない。
最後の大宮司富士亦八郎重本は志を全うしたがために、実に多くのものを失った悲運の人だ。
浅間大社名誉宮司の渡辺氏は宮司在職時代に挨拶でよくこう述べられた。
「昔、富士・吉原から富士宮(当時大宮)に行く事を、『大宮に上がる』と言った。大宮の町方の人間はその見識と教養の高さから、一目置かれていたようだ。これも富士大宮司家に置かれた私塾での教育が多くの人材を育てたからに他ならない。
歴史の中には出てこないけれど、この大宮司家の私塾は松下村塾にも匹敵するのでは無いかと考えている。」
打算に走らずに筋を通す。
こんな生き方は大宮人気質として、今でも残っているのではないかと感じる今日この頃である。