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昭和7年大宮町大火

写真は昭和7年の大宮町大火を記録した絵葉書(佐野写真館-佐野芳太郎発行)をAIのGemini(Nano Banana Pro)でモノクロをカラー化したものです。

Geminiに写真を示し、大宮町大火について教えてもらいました。

以下Geminiの回答です。*************************************************************
お送りいただいた写真は、昭和7年(1932年)4月21日に発生した**「大宮町大火(おおみやまちたいか)」**の惨状を記録した貴重な資料ですね。

当時の富士宮(当時は大宮町)は、まさに「泣きっ面に蜂」のような災難に見舞われた年でした。この火災について、主なポイントをまとめました。


1. 火災の概要

  • 発生日時: 昭和7年4月21日 午後1時30分頃
  • 出火場所: 現在の富士宮駅近く(当時の栄町周辺)
  • 被害規模: * 全焼:約1,200戸(当時の町全体の約30%が焼失)
    • 被災者:約5,000人(人口の約22%)
    • 人的被害:死者1名、負傷者97名

写真の右上にある**「大宮町駅前通りの惨状」**という文字が示す通り、駅前から市街地の中心部にかけて、神田川以東の繁華街がほぼ焼き尽くされてしまいました。

2. 背景と「三重苦」の年

この昭和7年は、富士宮の人々にとって忘れられない過酷な年でした。

  1. 4月:大宮町大火(市街地の1/3を焼失)
  2. 6月:大暴風雨(潤井川が氾濫、橋が流失)
  3. 11月:再度の大暴風雨(「悪鬼の所業」と称されるほどの強風で、復興中の住宅が多数全壊)

世界恐慌のさなかで経済も苦しい時期でしたが、この相次ぐ災害がきっかけとなり、地域の復興を支えるために現在の富士宮信用金庫の前身が設立されるなど、町が一致団結して立ち上がる転機にもなりました。

3. 写真から読み取れること

写真に写っているアーチ状のレンガ壁や焼け残ったコンクリートの柱は、当時の近代的な建物も火災の前では無力だったことを物語っています。当時、これほど大規模な火災は全国的にも大きく報じられ、各地から義援金や物資が届いたそうです。


この写真は、単なる被害の記録というだけでなく、そこから不屈の精神で町を再建していった富士宮の人々の歴史の1ページと言えますね。

引用ここまで***********************************************************


復興祭

大火から僅か2年後の昭和9年5月5日に復興祭がおこなれました。あれだけ大きな被害からの脅威的な速さです。
常磐と神田の記念撮影があります。


大宮青年団記録

大火の復興祭に関する決議事項が残っています。
14の分団が参加し、4日は午前10時に浅間神社拝殿前に勢揃いしてお祓いを受け、玉串奉奠を行う。
4日は午後1時より自町を引き出し、4日5日は午後11時までに6日は各分団随意に引きつけて午後12時までに切り上げる。
かなり盛大に行われたようです。
11月はどうしたかというと、瑞穂の青年の記録に分団長の自宅を会所にささやかに行ったという記録がありました。盛大な復興祭でしたから秋にはやらないのが普通でしょうが、そんな町内もあったようです。

絵葉書撮影者のこと

冒頭の絵葉書写真の撮影者は、佐野写真館を経営する佐野芳太郎、私の祖父です。
明治22年生まれで大正元年に佐野写真館を開業し、昭和30年に亡くなりました。

平成29年に旧店舗兼住宅を解体した際に、開かずの押し入れから大正12年9月の関東大震災の時の新聞がまとまって見つかりました。大阪毎日新聞なんてこのあたりで購読できたのかのでしょうか。災害に対する関心が見て取れます。

大火の際に写真を撮り歩いたのも、こう言った気持ちの表れだったのではと思います。
これほど大規模で大きな被害をもたらした火災は全国的にも大きく報じられ、各地から義援金や物資が届いたそうですが、被災の窮状を訴えるためにはこのハガキも大いに役に立ったのではないでしょうか。

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